昭和55年4月

名古屋市立沢上中学校に入学する。

入学式の写真

朝の支度もゆっくり伸び伸びで、自宅から走って5分の近さにも関わらず、歩いて登校した記憶が無いと言う程の『遅刻常習犯』で良く立たされた。

朝が苦手な佳代も6年生の時から毎朝、コテを使って念入りに髪をクルクルと巻いて髪型にはかなり気を使っていた。

そして、中学に入学してから弁当を持って行く事になって、日々、他愛のない母娘の言い争いが始まる。

「お母さんにはセンスがない!ココに苺が要るのよ」と佳代が言えば、「赤い色が欲しいなら、紅生姜かケチャップでも入れて行けば良いでしょ」と、負けじと母親も言い返す。

中学に入ると先生が生徒を「○○さん・○○君ではなく、お前、お前らと言うので佳代は、母親に学校に行かせて『キチンと名前で呼んで貰うように』と頼んで、PTA集会で母親に発言させる程だった。

中学1年の後期になると姉の入部していた陸上部に刺激されて、入部を機会に伸ばしていたロング・ヘアーをバッサリと切り落とした。

佳代は特別目立つ存在ではなかったが、中1の秋に生まれて初めて男子生徒からラブレターを直接、手渡された。
しかし、恋愛に好奇心を持っていたが、恋に奥手で実際に男子と話をしたり、デ−トする事は大の苦手だった。

そんな佳代は、常に男子生徒の憧れの的であったせいか、この後にも3回、別の男子からのラブレターが机の中に入っていた。
しかし結局、佳代の方から断ってしまう。

また、2年生の時には動物園で1度だけデ−トをしたが、この時も殆ど喋らずに終わってしまう。
当時、佳代は同年の男子より、28歳の社会科の先生に淡い憧れを抱いていた。

初恋とは縁のない生活を送る中で、小学時代から漠然と心惹かれていた歌手への夢が時と共に大きく膨れ上がって、この頃の最大の関心事は、「歌手になりたい!」という思いだけで現実の目標になって行く。

中1の時に雌のインコを買って来てハッピーと名付けた。
「小鳥の飼方」の本を買って、毎日スプ−ンで餌を与え手乗りに育てあげた。
羽根が生えて飛べる様になった頃に1度、飛び出して家の前の塀に止まった所を必死で捕まえて喜んだ。

またハッピーを肩に乗せながら、美術の宿題模写でルノワールの『ロメ−ヌラコ−嬢』を選んで描いたりした。

中2の時には、モナリザの鉛筆での模写と大好きな河合奈保子の人物模写を描いた。


《奈保子さんを良く知らなければ描けない》
背景色に頭を悩ませながらも、部屋の壁一面に飾られた大好きな河合奈保子のポスターを見て描いた。

中2の夏休みの宿題の1つで英語の物語を一冊訳する課題があった。
佳代は、かなり難しい『シンデレラ』を選択して、二学期直前になって訳して、絵を描かずに訳だけのノ−トと本を提出した。

多少の自信もあった様だが二学期の始まったある日、納得が出来なかったのか、泣きそうな顔で学校から帰宅すると母親に頼んだ。

「お母さん、皆の見て来て!」

母親も親馬鹿と思いつつ、担任の先生を訪れて作品展を見て回った。
母親が見ても絵の描いてある見た目の良い作品ばかりが入賞していた。

佳代の作品は、最初のペ−ジから訳が間違っていた不合理さもあって結局、母親も何もしてあげる事が出来なかった。

この出来事が余程、負けず嫌いの佳代には悔しく思えた。

秋に開催された名古屋市立中学校『英語暗唱コンク−ル』では、各クラスから代表者1人が選ばれる中、佳代はクラスの代表者になった。

熱が出て具合が悪くても課題テ−プを毎日、毎晩、何度も練習して最終的に学校代表者として選ばれた努力家でもあった。

中2の社会テストでは、徳川慶喜と書くべき所を『喜慶』と書き間違えて、98点になって先生の元へ行き質疑する。

「こんな難しい字を書いたんだからマケて!」
と言うと、先生も負けじと黒板に彼女の佐藤佳代を『代佳』と書いて、「コレ、どうやって読む?」と反撃されたチャッカリ者でもあった。。

そんな中学生活の中でも憧れる芸能界への夢は持ち続けていたが、そんな夢を家族や友達に言う事を恥ずかしがって、自分の心の中に納めていた。

そして誰にも内緒で中学1〜2年にかけて、大きく有名なものから、小さいなタレント・オ−ディションまで、少しでもタレントになれるチャンスがあると思えるオ−ディションには何でも応募し、挑戦して受け続けていた。

しかし落選が続く中で、初めて雑誌に載った『Nikon/フレッシュギャル・コンテスト』に入賞して、準グランプリを獲得した。

同時進行で日本TV 『スター誕生』にも応募した。

しかし返信通知が手元に送られて来る事はなく、準グランプリだけでは、歌手への道は開かれないと感じて、半ば歌手になる事を諦めかけてもいた。

中学3年の6月に応募ハガキを送って1年以上が経過した頃、何の前触れもなく中京TV『スター誕生』地区予選会の通知が送られて来た。

母親は困惑しながらも、「どうせ、地区予選だから…」と軽く考えて、予選会の参加許可を出した。

しかし、母親の思いとはウラハラに佳代は地区予選に合格してしまう。

この頃の佳代は、歌手ではなくて本当は『女優になりたい』と思っていた。

中学3年の夏休みは毎日、オ−ディションを受けに行ったり、大阪城で開催されたNikon主催の中高生の為のカメラ教室のモデルとして参加していた。

Nikonコンテストで準グランプリとなって、賞品で得たグアム旅行にも家族と行った。
帰国後、家に帰ってから17時間も寝続けて母親に『死んでるの?』
と驚かせた事もあった。

この年の夏には、NHK名古屋制作『中学生日記』に生徒役として既に出演も果たしている。

一方で通信販売で購入した銀色の痩せるスウェットス−ツを購入してダイエットに挑戦したり、二重瞼にする器具を購入して美容にも励んでいた。

昭和55年10月
学校を早退して、決勝大会を賭けた『スター誕生』最終予選会に出場する。



北原佐和子の『マイ・ボ−イフレンド』を歌唱して、見事に決勝大会への切符を手にする。

誰にも内緒で挑んだ事で、この合格が運命を変える。

昭和55年12月

佳代は進学の三者面談の帰り道に母親と話をした。

「あなた女優になりたいんでしょ?
それなら、高校を出て大学の演劇科かに入って、卒業してから文学座とか受けてもいいじゃないの?」


「それじゃ、遅過ぎるの!
せっかくチャンスが有るんだから挑戦したい!
それに私、今の学校教育は行けば余計に馬鹿になるような気がする。
学校は今でなくてもいいと思う。本当に行きたくなった時に行くわ」


佳代は自分の芸能界への憧れと強い思いを母親に訴えていた。

名古屋地区の予選合格後、日本TVから連絡が入る。
(12月5日収録の特番)に東京へ来て下さいという内容であった。

こうなると佳代の「芸能界への思い」を周囲に話して、予選出場の許可を貰わなければならなかった。

「どうせ落ちるんだから」

両親は軽い気持ちで許可した。
しかし、担任の先生は反対して忠告した。

「そんなモノに出たら、お前の高校受験の内申書を書かないぞ!」

「内申書なんて書いて貰えなくてもいい!」

佳代は固い意志で無断で学校を休んで『スター誕生』のTV予選に出場した。

予選会で歌った曲は北原佐和子の『マイ・ボ−イフレンド』
そして両親の予想を裏切って合格して、決勝大会・本選への切符を手にする事になった。

しかし、PTA役員をやっていた母親は、自分の立場も考えて、今度ばかりは猛反対した。

「大事な受験期に許せる訳ないでしょ。断わりなさい」

もともと、佳代を芸能界に入れさせる気などサラサラなかった父親も当然の如く受け合わない。

特に父方系は教育者が多く、母親は厳格な祖父から叱責された。

「芸能界なんて、とんでもない!
アンタどういう教育をしてる?」


佳代以外の家族中が芸能界入りを猛反対していた。

この事で頑固で負けけず嫌いの佳代の性格がムキムキと頭をもたげて、ハンガーストライキを決行する。
自分の部屋にこもり続けて、ベッドの中で布団を被って、食事は一切とらずに両親とも全く口を聞かなくなった。

学校へは行っても母親が作った弁当など持参せず、先生が話をしても聞かなかった。

日本TVからは、母親宛てに熱心な説得の手紙が届けられていた。

一方、夜中、密かに台所に立って隠れて食事をしている佳代の姿を見て、母親は泣きたくなっていた。

「佳代には、どうしたら解ってくれるんだろう。どうしたら、いいんだろう?」

既に母親は担任にも相談していた。


家族中に猛反対をされた佳代は翌朝、TVの上に『お母さんへ』と手紙を書いて置いた。
その手紙は、佳代の芸能界への強い気持ちを切々と訴える思いで書き綴られていた。

お母さんの考えている将来と私では違うんです。

確かにお母さんの言ってる事は解ります。
だけど、一度しかない私の人生です。後悔したくないんです。

お母さんにしてみれば、あんな仕事とかをする事が「後悔する」って言うのでしょう。

でも、私にしてみれば、それはずうーっと前から思ってた事なんです。
それだけを今まで考えて来た事なんです。

それで、何かそれが私の生き甲斐って言うのか、とにかくやりたいんです。

こんなこと書いといて、落っこちたらバカみたいだけど。
でも上手く書けないけど、とにかく私の願いなんです。真剣です。


佳代の手紙を読んだ母親は、、ストライキを続ける娘に対して、到底、出来ないと思われる『3つの条件』を4日目に母親の方から声をかけて伝えた。

@学校テストで学年1番をとる事

A中統中部統一模擬試験で学内5番以内に入る事

B第一志望の高校に合格する事

親としては、絶対に無理な条件を出して佳代に芸能界へ行く夢を諦めさせる魂胆でもあった。

佳代自身、この条件を聞いた時には驚いた。

小中学校と成績は常に上位トップクラスで頭が良かったが、第一志望の高校に合格する事が条件にあった為に12月の決戦大会は諦めて、次の決戦大会に賭ける決心をした。

そして、その日から好きだった歌番組も一切見ずに猛勉強を開始する。
深夜三時まで机に向かう日々が続く。


両親もまさか『3つの条件』を全てクリア出来るとは考えてもいなかった。

更に佳代は両親が呆れる程の頑張りを見せつける。

自ら冬期ゼミに通って、問題集を買い集めては、脇目も振れずに連日、深夜まで勉強に励む。

体を心配した母親が早く寝る様に諭しても、頑として聞かずに受験前の三ヶ月間は、食事時間も5分に切り詰めて夢中になって勉強した。

そんな頑固な佳代が、学校で大好きな歌の練習中に泣いていた事を知った母親の気持ちは揺らぎ始めてもいた。

勉強を続ける佳代の努力が実を結び三学期に入って、@学年テストで1番になった事を喜びながら母親に報告した。

この頃、母親は佳代の芸能界に進もうとする心を覆す事が出来ない…と既に諦めていた。

その後も順調にA中部統一テストで5番以内に入る条件もクリアする。
そして、残すはB高校合格の目標を達成するだけとなった。

この頃になると母親も夜食を作り佳代を応援するようになる。
「受験勉強に精を出して、芸能界も諦めてくれれば一石二鳥、夜食をたくさん食べさせて、豚のように太れば決勝大会に出ても間違いなく落選する…」
と母親なりの作戦でもあった。

昭和58年3月19日
受験合格発表日。
受験番号・65番

佳代の番号が掲示板に掲示されて無事に合格を果たした。
結局、親の出した『3つの条件』を自らの実力と努力で見事に達成してしまった。

さすがに両親も諦めて、約束した決勝大会の出場を許す事にした。

昭和58年3月30日

後楽園ホ−ルで開かれた『スター誕生』第46回決勝大会に出場する。

歌手に憧れ続けて応募してから返信通知を1年半も待ち続け、反対した両親を説得すべき勉強をして、決戦大会のステージに立った。

歌唱曲は中森明菜の『スロ−モ−ション』で、緊張しながらも力の限り歌いきって、見事に第46回グランプリを獲得した。


そして佐藤佳代から、『岡田有希子』に生まれ変るべき瞬間でもあった。







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