●備考:偏差値:70
合格推定:85点/100点


1983年4月(昭和58年)

名古屋市立向陽高等学校に入学。


入学後、日本TVから正式に『スター誕生』合格通知の電話が入る中、両親は困惑していた。

何度もサンミュージック福田時雄専務が両親を説得する為に自宅を訪れて、二学期を前に上京する事に決まった。

入学以降、佳代にとって上京までの高校生活は、最も充実した期間だった。

また、『入部して途中で辞めて、皆に迷惑をかけてはいけない』と考え、部活動はしないでサッカー部のマネージャーとして部室の掃除、ユニフォームの洗濯、試合応援など手伝った。

そのサッカー部の1年先輩に淡い憧れを抱いていたが結局、告白できないまま上京してしまう。

6月の体育祭にて

昭和58年7月12日
最初の芸名『岡田晴子(晴は目へんに青)に決まる。

別候補で『岡田佳代子』も挙がっていた。

しかし「“晴子”は事務所の先輩、桑田“靖子”と名前が似ている」

「“佳代子”は性格的に弱い名前で、厳しい芸能界では負ける」との理由で不採用となり、最終的に『岡田有希子』に改名決定となった。

1983年7月20日(終業式)
残っていた古典の追試を終えた後、クラスの皆が『佳代ちゃんガンバ!!」の送別会を開いてくれた。

寄せ書きの回し書き、男子生徒は1人ずつ一緒に記念写真を撮影をして、最後に「贈る言葉」を合唱してくれた。
送別会後は、近所のデニーズで食事をしながら、友達との別れを惜しんだ。

デニーズ桜山店
(08年10/26:閉店)

自ら選んだ道で今後は、東京で一人で生きて行かなければならない。
母親は佳代の為と思って甘やかさないで、上京に必要な準備、住民票の移動手続き、荷作り梱包など全て本人にやらせた。
そんな母親の思いを佳代自身も理解していた。


8/22 自宅前

昭和58年8月25日
母親と姉、そして大勢の友達に見送られながら、東京行きの新幹線に乗り込む。

感動的な別れの筈が、荷物を運んでくれた姉が降りる間際に新幹線が出発してしまい、佳代と同乗して東京まで見送る事になった。

そして、ホ−ムで佳代を出迎えたのは、松田聖子のマネ−ジャーを努めていた溝口伸郎だった。

「佐藤佳代です。宜しくお願いします」

「この子は、スターになる!」

溝口マネジャーは、佳代の光り輝く目を見て直感した。

この日から、相澤社長宅での下宿生活が始まる。

昭和58年9月
堀越高等学園(芸能コ−スD組)に編入する。

当初、人見知りする性格と名古屋弁を笑われるのでは…と気にかけて、標準語が話せるまでは、無口で大人しく、クラスに溶け込むまでに少し時間がかかった。


学園生活を送りながら、デビューまでの7ヶ月間、発声、歌、ダンスのレッスンを積んで行く。

デビューに向けて、プロになる為の日々のトレーニングは厳しく、思うように声が出ず、悔しさの余り涙した事、歩くだけのステップが上手く出来ずに3ヶ月間、毎日、同じステップを踏まされた事。

毎朝、6時に起床して相澤社長とジョギングする。
毎月1日と15日には、ジョギングの帰りに近所の稲荷神社に寄って沢山の願い事を祈った。

朝のジョギング

どんなに辛く厳しくても歌手になる為の一心で、負けず嫌いで努力家の佳代は日々レッスンに励む。



そして憧れの歌手への切符を手に入れた佳代は、歌手『岡田有希子』としてデビューに向けて、持ち前の負けん気の強さで名実共にシンデレラ街道を歩んで行く…。



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